小学校の同窓会

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6月26日(土)にオレの出身校である砧小学校の同窓会が世田谷の成城学園前駅前にあるTO THE HERBSであった。卒業して16年、この間に何度か同窓会をやったが、今回はみんな待ちに待った3年時の担任であられた泉先生がいらっしゃった(写真左)。
他の学校は分からないが、うちの小学校は2年ごとにクラス替えと同時に担任が変わる。そんな中、泉先生は3年生の1年間だけ担任になった。4年生になるのと同時に異動となり、入れ替わりで梨岡先生(写真右)が赴任してきた。4年生から6年生までの3年間担任でした。
自分も含めて、2人の下で教わった生徒はとても影響を受けていて、同時に今でも忘れられない人である。そして最も尊敬する方々(本人を前にしては言えないがw)。
もちろん、当時の記憶はさほど残っているわけではない。それでも記憶の奥底、胸の内では強烈な印象として存在している。なんせ、中学高校の担任の名前なんか完全に忘れているのに、小学校の担任は覚えてるのだから。


そんな先生方と久々にお会いしたわけだが、そこでそれぞれ一言ずつ頂いた。当時の話は本当に覚えてないが、さすがに先生方はつい先日のように記憶しているかのように、当時の話をしていただいた。
その中で、お2人とも「今だから言えること」を話してくださった。
泉先生曰く、砧小学校を辞められる際に何人かの保護者から「なぜ辞めるのか」と詰め寄られたらしい(その中にうちの母親が入っていたかは不明)。
生徒は当然のように慕っていたが、保護者もが教師に対して強い期待感・安心感を持っていたのは、今思うととても数少ない先生だったのだと感じる。
そして梨岡先生曰く、「4年生の10月まで、みんな”泉先生ならこう言った””泉先生ならこうした”と言われ続けた」とおっしゃった。それを聞いてどれだけ自分たちは残酷なことを言ってたのかと少しばかり後悔した。もちろんそんなことは覚えてなかったが、でも今思い返すとそう言っても仕方がないくらい泉先生の存在感はあまりにも大きすぎた。当時、1学年2クラスあったが、合同授業を多数行ったらしい(もちろん覚えてないw)。各クラスで算数ができない生徒は泉先生のところへ、国語ができない生徒は隣のクラスのところへと、クラスの枠組みを超えた授業をなさっていた。そうした影響からか、子供なりに泉先生に対する尊敬の念を抱いてたのだろう。
そんな中で梨岡先生は1人奮闘していたわけだが、やはり時が経つに連れて”泉先生と梨岡先生は違う”と言うことに気づいてきたのだと思う。別に悪い意味ではなく、泉先生なりの良さがあり、同時に梨岡先生の良さもあったと言うわけだ。それが結果的に今でも慕う理由なんだと思う。

お二方の生徒で本当に良かったと思う同窓会だった。またお会いできる日を楽しみにしております。